西上州ゆるゆる訪城 その2 小藩の城下町を面影を味わう~安中城編②
さて、お次は本丸跡方面に向かいます。
いったん旧安中藩郡奉行役宅のある交差点にまで戻りまして、現地案内に「袋町」とある道を北に進みます。
こちらの道(袋小路?)の右手にはかつて会所や藩士の学校であった造士館があったそうです。
安中藩剣術指南役の「根岸松齢の碑」がありましたが、この辺りが造士館跡でしょうか?
この写真の左側が馬場だったもようです。道が真っ直ぐではないのは、これまた往時の名残りですかね。
こういうちょっとした意匠がかつての城下町の面影を味わわせてくれる部分ですが、住んでいる人たちにとってはいちいち面倒なんだろうなぁ~とも思います。
さらに進むと、安中市文化センターがありまして、こちらの敷地と小学校の校舎のある辺りが本丸だったもようです。
本丸の西側は、射場だったようですが、今は体育館とその駐車場になってました。
その体育館の南にあったのが、「安中藩安政遠足」と「日本マラソン発祥の地」の記念碑。
安中市のホームページによると、遠足は“とおあし”と読み、1855年に当時の藩主板倉勝明が藩士の鍛錬のために碓氷峠の熊野権現まで、中山道を徒競走させて着順を記録させてことがことが始まり。これが日本のマラソン発祥なんだそうです。熊野権現までの距離は7里余りとのことで、そーいえば、この前月に碓氷峠熊野神社を参拝した際にも、安政遠足については案内されていたな~なんて思い出しました。
本丸跡には遺構などはないもようで、文化センターと小学校の敷地の間を道が貫いております。そちらを東へと進んで、プール脇の小道に入りますと、突き当たりが坂口門跡。読めないですが表示板が建っております。
門跡を示す表示より立派な石碑は「八重が渕」とあります。
現地案内板によると、安中城主の寵愛を受けた女官のお八重が他の女官の恨みを買ってしまい、無実の罪を着せられて安中城北側を流れる九十九川の淵に投げ込まれれたのだそうです。そのお八重の慰霊碑だそうです。後日談もあるようで、そちらはどうぞ検索でもしてください。
なお、石碑のある場所からは、安中城の背面が鋭く切り立ったガケになっていて、さらには九十九川で防御を固めていたことがよくわかります。
浅間山もよく見えました。
さらに東に向かいまして、18号バイパスの上に架けられたお八重橋を渡りますと、
その先が太郎兵衛平屋敷跡。
かつては北側に向かって張り出していた郭(?)跡のようで、バイパスによって失われてしまいましたが、櫓や煙硝庫があったそうです。
お次は本丸の東側に行きます。
かつては広小路だった場所にある細い道を南に進むと、太鼓櫓跡および大手門入口の表示板があります。
民家の間の細道を縫うように進みますと、大手門跡の表示板がありました。
さらに東方面に向かいますと、東門の跡があります。
こちらもキツいクランクになってますね。
東門近くにある熊野神社は、安中城を築城する際にその鬼門を守るために勧請されたとのここと。未確認情報ですが、こちらの門は安中城の城門が移築されたらしいです。
ってなわけで安中城の散策は終了。
遺構はそんなになかったですが、小藩とはいえその城下町らしさを多分に感じることができましたので、実に面白かったですね。
なお、安中藩は新島襄が出身地(生まれは江戸の上屋敷だったそうですが)で、安中市にはその旧宅が移築されてるとのことですが…安中城跡からはけっこう離れているため、訪れるのは断念しました。なにせ、午前中に訪れた松井田城跡といい、こちらの安中城跡といい、かなり濃いお城めぐりなりましたので、すっかりヘロヘロになってしまいましたからね。